「昭和十七年生まれがいなくなったなら……」<家族と別れ静岡へ・おにぎり・何か月ぶりかのお米のご飯>福井 章著

家族と別れ静岡へ

私が台所で倒れていた翌朝、静岡へ出発した。その日は朝から雲一つない快晴でとても暑かった。朝早く母親に起こされた。

いつものように少しだけ砂糖を入れた茶碗に湯を注ぎ、その中へ前日に母親が配給で買ってきた乾パンを浸し、ふやけて柔らかくなった頃を見計らって食べた。それがその日の朝食のすべてであった。朝食を食べ終えると休む間もなく急いで出発の準備をして東京駅へと向かった。

父は切符の手配をするため、私たちより一足早く東京駅へ向かっていた。二歳の弟をおんぶした母に手を引かれ、父の後を追った。

駅のホームはすごい人であった。白い蒸気を吐き、黒い煙を出す蒸気機関車は巨大な鉄の塊のようであった。やがてけたたましい汽笛が鳴ると同時にガックンという衝撃を感じ、汽車はゆっくりと動き出した。

私たちは座席を確保することができたが、座ることのできなかった人は大きなトランクやリュックサックを通路の床に置き、それを座席代わりに座っていた。中には人が座っている座席の肘掛けを座席替わりに使っている人もいた。

いつしか私は眠っていた。昼近くになり、汽車はようやく静岡駅に着いた。大きな都市の駅だけあって、乗り降りする人の数も多い、ただでさえ混雑した車内を大きな荷物を持った人たちが出入りする。座っている人に荷物が当たる。その度に「痛い」だの、「気をつけろ」、「そこ、どいてくれ」などと怒鳴る人もいる。

そんな騒々しさのため、眠り込んでいた私の目が覚めた。喧騒が一段落した頃、汽車は再び汽笛を鳴らして動き始めた。静岡駅では私たちの前の席に中年の女性と男性が座った。女性は手にした荷物を網棚に置き、その横に、男性が荷物を置いた。

 

おにぎり

やがて汽車は安部川鉄橋を渡り、日本坂トンネルに入った。当時の汽車に冷房などない。暑い日は窓を開け、風が入るようにするしかない。しかし、トンネルの中では石炭の煙が開いた窓から車内に入り込んでくる。暑さを我慢して窓を閉めざるを得ない。

やっとトンネルを抜け車内が明るくなり、窓も開けられるようになったところで女性は網棚の荷物を下ろし、中からおにぎりを取り出した。大きさは四歳の私の顔ほどにも見えた。そんなおにぎりの一つを無造作にほおばった。

無言で女性の仕草を見ていた私は靴を脱ぎ、窓に向かって正座して外の風景を見た。しばらくすると、母が「アッ君。お団子を食べる?」と言った。私は「食べたくない」とつれなく返事を返した。そして正座したまま窓枠の上に乗せた両腕に顔を置き、車窓を流れる風景をぼんやりと眺めていた。

母が食べたくないかと聞いた団子は厚み約一センチ、直径約五センチで灰色をしていた。どんな材料で作られているのかわからないが、とにかくコメでないことだけは子供の私にもわかった。とても酸っぱい味であったと記憶している。現在なら、犬の餌にもならないくらいまずい代物であった。そんなものでも、買うことができれば幸運だったのである。

この時の記憶を母に話したところ、「もしもお前がおにぎりを食べたいといったなら、あの女性に土下座してでも少し分けてください、食べかけのものでも結構です。いくら出せば売っていただけますかと懇願するつもりだった」と言っていた。

そんなこともあったが、汽車は無事に浜松駅に着いた。祖父母が住む掛塚へは浜松駅からバスに乗り、天竜川手前の終点まで行く。そこからさらに十五分ほど歩いたところだ。

バスを降り、私は母と手をつなぎ天竜川に架かった木でできた橋を渡った。母の心配をよそに、私は知らない世界へ来たことで、父母や兄弟と別れる心配よりも、どこか浮き浮きした気持もあった。家を出た時と同じように、掛塚の空もよく晴れていた。

 

何か月ぶりかのお米のご飯

「お母、お母」。母が大きな声をかけた。戸は空いていたが、家の中からは物音一つ聞こえなかった。祖父母は畑仕事に出かけているようであった。戸締りなどしていないので、玄関であろうが縁側からであろうが、家の中へはどこからでも自由に入ることができた。

掛塚の家はもともと三〇坪くらいの広さの農家の納屋を借りたものだ。それを祖父が改造して住んでいた。

祖父は腕のいい大工であったが「床の間大工」といって床の間の部屋しか作ってこなかった。家そのものは作ったことはなかったが、やはり大工である。「へっつい」(釜戸)を造り、土間と二〇畳ほどの部屋と縁側を造作し、見事な一軒家に作り替えた。土間には収穫した農作物が置けるようになっていた。

家の入り口を入ると、左手が二〇畳ほどの部屋になっている。部屋に上がり、押し入れから布団を取り出した母は、その上に負ぶっていた弟を下ろして寝かしつけた。初めて訪れた私は部屋の中をきょろきょろと見まわした。やがて、ちゃぶ台の横にあるお櫃が目に留まるやいなや、まるで宝物でも見つけたように目をカッと見開いて駆け寄った。蓋を取ると、麦ごはんが入っていた。

昼時の時間はかなり過ぎていたが、おそらく、祖母が昼飯用に朝炊いたご飯であろう。

「母ちゃんご飯だよ、ご飯があるよ」。東京での食べ物といえば、イモ、豆、大根、すいとん、庭のある家は小さな畑をつくったり、イチジクなど、実のなる木を植え、それで飢えをしのいでいた。ただでさえ自制心の効かないのが子どもである。しかも、お櫃に入ったご飯など、ここ何か月もお目にかかったことがない。

「アァー」とも「ウォー」ともわけのわからない言葉を発し、お櫃の中へ手を突っ込んで麦ごはんを鷲掴みにして母の顔の前へ突き出した。いくら父母の家とはいえ、連絡もせずに訪れ、勝手に上がり込み、無断でご飯を食べるのは礼儀に反するはずだが、そんなことにはかまっておられなかった。母の脳裡には、つい一~二時間ほど前、列車の中でおにぎりを食べていた女性を見ないように必死で空腹をこらえていた子どもの姿が浮かんだのだろう。

「ちょっと待って」といって鍋を持ってくると、私の握っていた麦ごはんを一粒残さず鍋に移し、さらにお櫃の中の麦ごはんを加え、塩を入れておかゆを作った。土間にあった野菜を刻み味噌汁も作った。空腹を満たすには足りなかったが、それでも久しぶりのおいしいごはんとみそ汁に満足感を味わった。

二人でおかゆとみそ汁を食べて一段落したところで、母が米櫃を開けた。覗いていた私は「あっ、お米だ」と叫んだ。「母ちゃん。お米だ、お米があるよ」と言いながら部屋の中を飛びはねた。私の家にも、米櫃はあった。しかし、かなり前から中には何も入っていなかった。麦ごはんを見つけて手で握った時と同じように、米櫃の中へ手を突っ込みひと掴みして、匂いをかいだ。久しぶりのお米の香りであった。

米を握りしめたまま、いつしか私は眠っていた。母親のすすり泣く声が聞こえたような気がした。母に当時の思い出を語った時、「握っているお米がこぼれ落ちないよう、両手でアッ君の手を包んでいたら、なんとも切なくなって、泣いたかもしれないわね」と言っていた。

「アッ君、アッ君、ごはんができたよ」という母の声で目が覚めた。ちゃぶ台の上には白い湯気を立てたホカホカのご飯があった。簡単なおかずも作ってあった。おかずには目もくれず、ひたすらご飯をかきこんだ。「おかわり」といって茶碗を差し出した。この時、母のうれしそうな顔を久しぶりに見たような気がした。

だが、この時母は別のことを考えていたという。ここ数か月というもの、満足な食事もできず、この子は栄養失調でいつ亡くなってもおかしくない状態であった。いきなり満腹になるまで食べたなら、かえって身体を壊すかもしれない。下手をすると、死ぬかもしれないと思ったという。その一方、あのまま東京にいたら飢餓状態で死んでいたかもしれない。同じ死ぬのであれば飢餓で死ぬよりはお腹いっぱいになるまで食べ、満足して死なせてあげたいと思ったという。

この時代、一番の幸せといえば、お腹がいっぱいになるまで食べられることであった。母子水入らずの幸せなひと時を楽しんでいるところへ祖母が帰ってきた。

誰もいないはずの家の中にいた来客に、祖母は驚いた様子であったが、「おう、おう来たか、来たか」と言って相好を崩し、農作業で汚れたままの服で私を抱きしめた。

母はここへ来た理由を述べ、さらに、断わりもなくご飯を炊いて子どもに食べさせたことを詫びた。

「そんなこと謝らんでもええ。東京ではろくに食べるものも手に入らず、大変だということは田舎に暮らしておっても知っている。アッ君はたらふく食ったか。足らんかったら、もっと米を炊いて食べさせてやれ」と涙声で語った。

日が西に傾き、初夏の長い一日がようやく暮れかかるころ、リヤカーに収穫したばかりの野菜を乗せた祖父が帰ってきた。勢いよく入口の戸を開けて祖父が飛び込んできた。「やっぱりお前たちか。家の前まで来たら中から人声が聞こえてきた。しかも子どもの声までする。ひょっとしてと思ったが、やっぱりそうだったか。東京ではみんな無事か。そうか、そうか、とにかく無事でよかった」と言いながら涙を流した。

戦争が終わって一年近く経とうとしていたが、この間、楽しかった思い出はない。しかし、その日、祖父母と母と弟の五人で囲んだ夕食は本当に楽しかった。

母は祖父母に子供を預けたらすぐに東京へ戻るつもりであったようだが、祖父母から、まだまだ大変な毎日が続くだろうから、少しゆっくりして栄養をつけてから帰るように言われ、二晩ほど掛塚の家に滞在した。また、私を一人置いていく不安もあったようだ。

浜松駅まで弟をおんぶした母を送りに行った。待合室のベンチに腰掛けた母の顔がどこか寂しそうであった。子どもと別れて暮らすことに後ろ髪を引かれる思いがあったことだろう。その日から祖父母との三人での生活が始まった。

・・・・・<カラスの贈り物・おやつになった雑草や昆虫>へつづく

2021/01/25

「昭和十七年生まれがいなくなったなら……」<おみ君のおっぱい・台所で倒れこんでいた私>福井 章著

おみ君のおっぱい

昭和二十年八月六日に広島、九日には長崎に原子爆弾が投下され、日本は十五日に無条件降伏を受け入れた。昭和六年(一九三一)の満州事変から続いた十五年に及ぶ戦争がようやく終わった。軍部の一部には最後の最後まで戦うと叫んでいた者もいたようだが、国民の多くは平和になったことを喜んだ。母も「ああ、やっと戦争が終わってくれた」と安堵したという。

だが、戦争が終わったからといっても相変わらず国民生活は窮乏していた。戦争が始まるころから生活物資の不足を補うために切符配給制がとられていたが、物不足はますます酷くなっていた。特に主食の米は、敗戦間際には大人一人一日当たり約三百グラム、子どもは約二百グラムの配給となっていたが、それも二か月や三か月の遅配は当たり前となっていた。

どうやって生活をしていたのか不思議に思い、当時のことを母に訊ねてみた。

「満足に食べるものがなく、毎日ひもじい思いをしていたと思うけど、どうやって生きていたのだろうかね、思い出せないね」と悲しそうな表情を浮かべ、つぶやくように答えてくれた顔がいまも忘れることができない。

敗戦の約一年前の昭和十九年に弟が生まれていた。私は四歳になっていた。十分な食べ物がなく、大人でも生きることで精いっぱいの時、子どもはもっと厳しい状況の中にいた。空襲の恐怖から解放された九月のある日、その日はまだまだ夏の暑さが残っていた。

一歳になったばかりの弟が母の乳を飲んでいた。私は弟を見つめ「おみくん、おいしい?」と声を掛けた。私が発した言葉を聞いた母は「アッ君もここに来ておみ君と一緒にお飲み」といって手招きした。

だが私は「ダメ! おっぱいはおみくんの」と強く拒否し、座ったまま後ずさりした。

昭和二十年の東京大空襲は従来の軍事施設を狙ったものとは異なり、人口の密集した下町などを中心に行われ、民間人が大量に焼死した。こうした空襲の結果、流通も大きな被害を受け、食糧事情はさらに悪化していた。食べ物がほとんど手に入らない状況の中、乳呑児を抱える母親の栄養も悪く、子どもに十分な乳を与えることができず、子どもたちの体力は日に日に衰えていった。弟のおみくんの体力もかなり落ちていた。乳離れをしていたとはいえ、私の体力もかなり衰えていたと思われる。

母はそんな我が子の体力が落ちていくのがつらく、弟を寝かしつけると涙をぼろぼろ流しながら、ぎゅっと抱きしめ「おみ君は一杯飲んだから、今度はアッ君が飲みな」といって胸を私の顔に押し当ててきた。

それでも「ダメ、これはおみくんの」と言って、両手で強く母の胸を押しのけるのであった。母はそれでも「お願いだから飲んで」と無理矢理にでも飲ませようとするのだが、私は部屋から逃げ出した。まだ幼かったにもかかわらず、飲めば弟のおみ君の分がなくなってしまうという気持ちがあったようだ。

 

台所で倒れこんでいた私

戦争が終わり、アメリカ軍が日本に進駐した。進駐軍が使用するため、多くの建物が接収された。公共輸送も進駐軍優先であった。それでも敗戦の翌年あたりから少しずつ改善され、東海道本線に急行列車が運行されるようになった。ただ、食糧事情は相変わらず悪いというより、むしろ悪化していた。

昭和二十年の東京大空襲によって池袋も一面の焼け野原となっていた。当時、私の実家は板橋区(現練馬区)江古田町にあった。空襲の時、私より十歳上の兄は燃え盛る火のため、家の中でも本が読めるほど明るかったと言っていた。

戦争が終わると、焼け野原の中にヤミ市が現れるようになった。ヤミ市へ行けば大抵のものは手に入れることができたが値段はべらぼうに高かった。

米や野菜など、普通の店へ行っても簡単に手に入れられなかった。そこで近在の農家を訪ねては直接交渉しながら買い付けした。時には着物などと交換することもあった。たとえサツマイモが一個しかないと言われても買った。

食料を手に入れるため、時にはリュックサックを背負い、自宅から二〇キロ、三〇キロも離れた川越まで歩いて出かけることもあった。往復すれば五〇~六〇キロになる。食料が手に入れば背中のリュックは重くなる。朝、暗いうちに家を出て、家に帰りつくころは夜中である。

戦後処理のため、猛烈なインフレが進み、昭和二十一年二月に新円切替が行われることになった。同じ一円であっても、それまでの一円と新円の一円では価値が大きく異なる。そのため、預金封鎖が行われ、一世帯当たり、銀行から一か月に引き出しのできる金額は五〇〇円以内に制限されてしまい、使用できる現金も少なくなった。

窮乏生活の中で必死になって蓄えた国民のお金を、国は預金封鎖によって最後の一円までも取り上げたのである。

そこで物々交換で食料を手に入れることが多かった。

その年の六月、配給の乾パンを受け取って帰宅した母が、台所でうつ伏せになって倒れている我が子を発見した。驚いて手にしていた荷物を放り投げて子どもの横に座り込んで抱きかかえ、「アッ君、アッ君。起きて、起きて。どうしたの、目を開けて、お願い」と大声を出して必死になって呼びかけた。

母の思いが子どもに通じたのか、うっすらと目を開けた。だが、すぐに目を閉じてしまった。

幸いにも大事に至ることはなかったが、このままではこの子は死んでしまう、一刻も早く祖父母がいる静岡の掛塚へ連れていき、療養させなければと考えた。そこは祖母の実家で、畑を作っていたので、食べるものだけはあった。

夜になり、買出しから戻ってきた父に事の顚末を話し、私が小学校へ入学するまで掛塚で預かってもらうことになった。祖父母に連絡している余裕などない。翌日、東京駅に向かい、父が切符を二枚手配し、一番列車に母と弟の三人で乗り込んだ。

この時の母は、四歳にになって間がない幼い子が親元から離れ、祖父母と三人でうまく生活に馴染めるだろうかなどと考える余裕などはなく、掛塚へ行けば何とか食べることだけはできると思ったという。それほど食糧事情は逼迫よくしていた。

・・・・・<家族と別れ静岡へ・おにぎり・何か月ぶりかのお米のご飯>へつづく

2021/01/18

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