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「八事に落とされた原子爆弾 」<小学校への入学・敗戦を知った八月二十日>山本裕道著

  • 小学校への入学

 昭和二十年四月、国民小学校へ入学しました。入学式には父親も参観してくれました。久しぶりに父親に会えたことが嬉しく、後ろにいる父親の方をチラチラと振り向いてばかりいて、父に睨みつけられました。日本では連日のごとくどこかの都市が空襲を受け、多くの死傷者が出ていたのですが、チャムスではそうした話を聞いた記憶はありません。子供たちはもちろん、大人たちが戦争について話をしているのを、聞いた覚えもありません。

 七月に母は四人目の子を出産しました。私にとっては一番下の弟です。しばらくして生まれて間もない赤児を連れて家族全員で父親のいる部隊を訪ねました。母は父親に対し、日本へ帰りたいと訴えました。幼子四人を父親のいない異国で育てる苦労は大変であったのでしょう。父の兄は軍属であった関係で、日本の戦況をある程度把握していたのか昭和十九年には家族を日本へ帰していました。父の弟も同じころフィリピンへ転属となり、家族を日本へ帰していました。そうしたことで母は孤独感もあったのかもしれません。しかし、父は母を説得し、しばらく満州にとどまる決心をしたそうです。

 

  • 敗戦を知った八月二十日

 八月十五日、日本では玉音放送で終戦の詔勅が流されました。ただ、私の不確かな記憶では、日本の敗戦を知ったのは十五日ではなく、二十日頃であったように思います。玉音放送だとか終戦だとか、大人たちが叫んでいることが何を意味するのか、小学校一年生の私にはわからないことでした。その後、近所の人たちが「内地に帰る」「内地に帰る」と騒いでいるのを聞いて「内地へ帰る」とはどういう事なのだろうと思いました。

 やがて近所の人たちが集まって移動が始まりました。何のため、どこへ行くのかは分かりませんでしたが、ともかく今まで住んでいた家から出て行かなければならないということは、幼いながら周りの雰囲気から察しました。

 チャムスを出るときは、着の身着のままで、金目の物は何も持ち出すことはできませんでした。お客さんから預かっていた大切なカメラや時計なども、すべて置いてこざるを得ませんでした。

 いつ、どこに集合したのか、どれだけの人が集まったのかはわかりませんが、隣近所の人たちと決められた場所に集まり動き出しました。それから二~三週間後、移動先の避難所で父の戦死を知らされました。日本へ戻ってからしばらくして、店の従業員で、父と一緒に召集された新潟出身の方が、父方の実家を訪ねてこられ詳しい情報を伝えてくれました。

 父が戦死したのは、八月十五日以降で、夜中にソ連軍の攻撃を受けたそうです。場所は満州国牡丹江省愛河兵器廠の付近であったといいます。父は三十四歳でした。

 その頃、満蒙開拓団はソ連の参戦により、置き去りにされ戦火を逃れるため、南へと逃げました。旧満州国や内モンゴルへ入植した人は二十七万人もいたとされますが、そのうち八万人もの人が逃避行の過程で亡くなったとされています。

 

コーリャンのお粥だけで歩き続ける

 チャムスから目的地の大連までは約千三〇〇㎞。途中、列車で移動することもありましたが、ひたすら歩き続けたという思いしか残っていません。最初の集合地までは日本の兵隊がガードしてくれました。

 チャムスを出発してしばらくの間、母は五歳の妹と三歳の弟の手を引き、背中に生まれてまだ一か月しか経っていない赤子をおんぶしていました。幼子三人を連れて歩くのは極めて困難だったと思います。どうしても集団から遅れ気味になってしまうため、私が生まれて間もない弟をおんぶすることになりました。

 逃避行の途中で宿泊した場所として覚えているのは飛行場の建物です。宿泊設備があるわけではなく、寝具も何もないまま、床の上で転がって寝ました。逃避行が始まったのは日本の敗戦後ですから、八月の半ば以降のため、寒くはありませんでした。もちろん風呂などありません。トイレも大きな穴の上に板が渡してあるだけで、周りを囲むものもありません。

 歩くのは昼間だけでなく、夜間に歩くこともありました。あるとき、夜中に歩いていると雨が降ってきました。兵隊さんが焚火をして、濡れた衣服を乾かしました。食事は毎日三度食べられたのかどうかも覚えていません。コーリャンを煮て塩で味をつけたしゃびしゃびのお粥を食べた記憶だけです。もちろん、おかずなどはありませんでした。

・・・・・<国民党の兵隊さんに守られて大連へ>へつづく

2021/04/05


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