「昭和十七年生まれがいなくなったなら……」<カラスの贈り物・おやつになった雑草や昆虫>福井 章著
カラスの贈り物
祖父母の家のすぐ横には小さな水路が流れていた。水路とはいっても、コンクリート張りではなく、自然の小川のような雰囲気であった。農作業から帰ってきた祖父母がその水路で鍬や鋤をよく洗っていた。水の中にはメダカが泳ぎ、初夏ともなれば蛍が乱舞した。餌になるカワニナが生息できるくらい水がきれいであったということだ。街路灯もなく、真っ暗な初夏の夜に飛び交う蛍の光はまさに幻想的な光景であった。
二人だけの暮らしに孫が加わり、祖父母もどこか楽しそうであった。私も母がいない寂しさより、東京でのひもじい暮らしから一転し、毎日、お腹いっぱい食べられる生活に満足していた。
浜松も市街地は空襲によって大きな被害を受けていた。しかし、掛塚は幸いにも空襲の被害はなかったようだ。焼け野原となった東京とは違い、ここには平和で豊かな暮らしがあった。
祖父母が農作業へ出かけるときは、私もついていった。祖父が引くリヤカーに農機具と一緒に乗り、後ろから祖母が押す。三〇分ほどで畑に着く。野菜の収穫、雑草取りなどを手伝った。もちろん小さな子どもだから手伝うといっても祖父母の真似をするだけで、むしろ農作業の足手まといになっていたかもしれない。
遊び道具など何もないが、虫を捕まえたり、花を摘んだり、時には畑の片隅で穴を掘ったり、土をこねるなど、結構楽しかった。畑で作業をしながら、一人で遊ぶ私を、祖父母はいつも優しく見守ってくれていた。
ある日、町へ売るためのスイカを収穫するために畑へ出かけた。カラスが数羽、畑の近くを飛んでいた。スイカを収穫していると、明らかにカラスがつついた痕のあるものが幾つかあった。キズものになったスイカは売れなくなる。祖父は「チクショウ、カラスのやつめ」、と罵り声をあげながら、近くを飛んでいるカラスに向かって手に持っていた鎌を振り上げた。
「カラスもそうだが、ほかの鳥も食べごろかどうかよく知っている。鳥がつついたものはおいしいんだ」といって、キズのついた部分を鎌で切り取り三人で食べた。冷えてはいないが甘く、暑い夏場の農作業にとってはひと時の涼となった。
おやつになった雑草や昆虫
祖父母の家は天竜川の堤防から五〇メートルほど離れた場所にあった。畑仕事がなく天気の良い日には天竜川の河原へ釜戸で燃料にする流木を拾いに出かけた。河原には上流から流れて来た流木がたくさんあった。大きなものもあれば、小枝もある。祖母はよく乾いた小枝を拾い、背中の竹かごにポイ、ポイと手際よく放り込んでいく。二時間もすればかご一杯になる。小枝を拾い集めるだけのことだが、なんとも楽しかった。
そしてもう一つ、河原には楽しいことがあった。この地方でアマジと呼んでいた草があった。土手に生えているこの草を素手で掴んで引っ張ると、淡いピンク色をした根っこが採れた。手で土を拭い落とし、そのままシャキシャキかじるとほんのり甘い汁が口の中に広がった。お菓子はもちろん、甘いものそのものが乏しかった時代である。今となっては正式な名前もわからない。いまなら同じようにかじったとしても、甘いと感じるかどうか、わからない。それでも当時の子どもにとっては格好のおやつ替わりとなった。
甘いものと言えば、この辺りには生垣に「ほそば」という木が使われていた。ほそばはこの地方の方言で、槇の木のことである。夏の終わりから秋にかけ直径一センチほどの、雪だるまのような形をした実がつく。上が赤く下になった部分は青い。この実をヤンゾウ、ニンゾウと呼んでいた。赤い部分は淡い甘さがあり、その実が熟して紫色になるとさらに甘みが増し、ゼリーのような感触になった。子どもにとっては極上のおやつであった。
近所に住んでいた小学生の男の子が、よく私と遊んでくれた。その子が稲刈り前になると、田んぼにいるイナゴ取りにつれて行ってくれた。イナゴは人をあまり警戒しないのか、四、五歳の子供でも簡単に取れた。袋を一杯にして帰ると、祖母が「沢山捕れたね」といって私を褒めてくれた。そして翌々日には佃煮になって食卓を飾った。普段は野武士のような顔つきの祖父であったが、目を細め「アッ君が捕ってきたイナゴ、いただきます」といって喜んで食べてくれた。もちろん私もたくさん食べた。
足長バチの幼虫もよく食べた。巣を見つけると、細長い竹で叩き落して巣を持ち帰り、中にいる幼虫を一つずつつまみ出す。それを祖母にフライパンで炒ってもらい、おやつにした。
雨さえ降らなければほとんど毎日のように、決まった時間に行商のおばあさんがやってきた。そのおばあさんを、みんなは「ハッチャー」と呼んでいた。腰が曲がり、籐で編んだ乳母車を杖代わりにするかのように前かがみになって押していた。どんな商品を中心に売っていたのかは知らないがたまに祖母から小遣いをもらうと、ハッチャーが来るのを楽しみにしていた。
家の外で待っていると、やがて遠くにハッチャーの姿が見える。急いで走って迎えに行き、一緒に乳母車を押して家の前までくる。私が好きだったのは、甘辛く煮込んだイカであった。それを一匹丸ごと買って、祖母と一緒に食べるのが楽しみであった。もしかすると、祖母に母の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
・・・・・<祭り・ニワトリの世話・五右衛門風呂>へつづく