「八事に落とされた原子爆弾 」<八事、杁中に爆弾が落とされた理由。>山本裕道著
八事、杁中に爆弾が落とされた理由。
緑が多く、閑静な住宅地の多い八事、杁中の近辺に、かつて爆弾が落とされ、防空壕や高射砲陣地があったといわれても、信じがたい気がします。しかし、何人もの証言や実際に歩いてみると、僅かながらもそれらの痕跡を見つけることができます。
この地域には大規模な軍需工場も、軍事施設もありませんでした。それがなぜ空爆を受けたのでしょうか。投下された爆弾穴の跡等から、色々なことが推察されます。一つ目として、南山大学近くに高射砲陣地があったことです。名古屋大学にあった爆弾穴を辿ると、南山大学まで伸びています。また、名古屋大学の東山キャンパスは現在とは違い、学部も校舎もあまりありませんでした。しかも昭和二十年には全学的に疎開していたため、兵舎として使われたいたようです。さらに当事の校舎を、アメリカが軍の貯蔵施設だと勘違いしていたとも考えられます。
一方、比較的近い距離ですが、昭和区五軒家町、山里町、興正寺、八事霊園などにも爆弾穴の列がありました。八事の日赤交差点付近には模擬原子爆弾が落とされています。
名古屋を空襲する爆撃機は、琵琶湖上空から名古屋へ向かい、豊橋、浜松方面を空襲して帰還するコースや空爆後、伊勢湾方面へ抜けるコースがありました。
三月二十四日から二十五日にかけて東区の三菱発動機などを空爆した飛行機は伊勢湾方面へ抜けて帰還しています。八事の上空二千~三千メートルの高度から見れば、海は間近に迫っています。余った爆弾を投棄する最終地点だったのです。あるいは、余った爆弾で名古屋大学や南山大学の高射砲陣地をついでに空爆したのかもしれません。少なくとも、こうした地域を最初から目的としていたのではないようです。
模擬原子爆弾は通常の爆弾より大きく、形も異なっています。秘密裏に改修されたBー29に積み込むため飛行機の下の地面に穴を掘り、そこからリフトアップしなければなりませんでした。爆撃機が帰還した際、着陸時の衝撃で爆弾が暴発する危険もあるため、目標地を攻撃できなかった時は投下することになっていました。それも相手に少しでも損害が与えられるよう海上に出る前に投下したのです。名古屋は富山に投下できなかった場合の第二目標だったのです。ただし、名古屋のどこに投下するのかといった明確な目標地点はなかったようです。
「八事に落とされた原子爆弾 」<昭和区にあった高射砲陣地・山中に作られた海軍施設の防空壕>山本裕道著
- 昭和区にあった高射砲陣地
アメリカの爆撃機が襲来したときに備え、日本にも防空態勢はありました。その一つが高射砲です。南区の見晴台にある高射砲の台座の跡は戦争遺跡としてよく知られていますが、八事・杁中及びその近辺にも高射砲陣地とされるものがあったことは意外と知られていません。また、高射砲隊には爆撃機が襲来する前に探知するための聴音機や、爆撃機を照らし出す照明灯なども高射砲とは少し離れた場所に設置されていました。
千種区、昭和区、天白区、瑞穂区内の小高い山の上などに、高射砲陣地があったという話を聞くことがありますが、その多くは、模擬の高射砲であったようです。つまり、丸太などを組み合わせ、上空から見ると高射砲のように見せかけたのです。それで果たしてアメリカ軍の目を誤魔化すことができたかどうかはわかりません。ただし、偽の高射砲ではなく、照明灯や聴音機のあった場所を、高射砲陣地として伝えられている場合もあるようです。天白区にあった権現山(現在は削られて天白高校になっている)にも高射砲陣地があったとされますが、ここにあったのは高射砲ではなく照明灯であったようです。
現在の南山大学のキャンパスの近くには実際の高射砲がありました。ただし、どのような性能の高射砲であったのかは判然としていません。さらに、この高射砲によって、実際に爆撃機を撃墜したのかどうかもよく分かりません。
かつて、関東の高射砲隊にいたという人によると、本土へ向かってくる爆撃機に対しての射撃は行わず、空爆を済ませ、引き返していく爆撃機に対して撃っていたといいます。向かってくる飛行機に討つと、逆に攻撃されてしまうからです。引き返す飛行機に撃つのであれば本土防衛になるはずがありません。
- 山中に作られた海軍施設の防空壕
五軒家にある神明社には鳥居がなく、ライオンの像が狛犬の代わりに置かれています。正面の道路に面したところは現在、石垣になっていますが、ここに防空壕がありました。また名古屋大学構内にある鏡池の東側の山や見附小学校(千種区)が造られる前の「稲船山」などにも、いくつかの防空壕がありました。いずれも斜面や崖を利用して横穴を掘っただけのものでした。そのほか、一般の民家では庭に縦穴を掘った防空壕も作られました。
江戸時代には名古屋を代表する行楽地であった八事音聞山(天白区)にも巨大な防空壕が作られました。旧横須賀海軍施設部名古屋支部の事務所として山の中腹をくり抜いたものです。高さ約三メートル、長さ約一〇〇メートルの二本で、中央部付近で繋がり、全体として「H」の形をしていました。作られたのは昭和十九年(一九四四)、主に海軍の飛行機に使う木材の管理を目的にしていたようで、建設作業には四百~五百人が働いていたといいます。建設作業で出た土砂はトロッコで運び出され、近くの池の埋め立てに使われたようです。作業にあたったのは主に朝鮮人労働者で、毎朝、トラックに乗って通っていたそうです。
戦後、山の上に建物を作るため、防空壕は埋められ、付近も住宅街となってしまいましたが、いまも、民家の裏に、コンクリートで塞がれた防空壕の入り口跡を残しています。
・・・・・<八事、杁中に爆弾が落とされた理由。>最終回へつづく