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「八事に落とされた原子爆弾 」<チャムスでの生活>山本裕道著

●チャムスでの生活

 チャムスで暮らしたのは昭和十四年(一九三九)二月から昭和二十年(一九四五)八月まです。私の記憶に残されているチャムスは昭和十六年か十七年以降です。しかも強烈な印象として残っていることはありません。むしろ、平穏な日常の記憶だけです。

 私が二歳になった昭和十六年(一九四一)には、日本国内では米の配給制度が始まります。配給制度というのは、戦争による物資不足に対処するため、食料品をはじめとした生活必需品は一人当たり決められた量しか購入できないという制度です。日本本土ではかなり食糧事情が逼迫しつつあったようですが、私がチャムスで暮らしていた間は、お腹を空かしてひもじい思いをしたという記憶はありません。

 昭和十七年(一九四二)、日本はミッドウェー海戦で大敗を喫し、それに続くガダルカナル海戦でも敗北します。また、この年にはアメリカ軍による名古屋市内への爆弾投下が行わています。その後の空襲に比べ被害は小さかったとはいえ、八人の死者が出ています。このころ私は三歳になっていました。

 私が住んでいた近所に中国人はおらず、日本人租界(*1)のようなところではなかったかと思います。二~三キロ離れたところに高いビルが見えていたので、そこがチャムスの中心部ではなかったかと思います。

 普段は日本人しか見かけませんでした。たまに中国の人を見かけることもありましたが、いずれも建築現場で働く作業員とか、馬車や荷車を引くなど、いわゆる単純な肉体労働をしている人でした。彼らの昼食は小麦粉を水に溶いて薄く伸ばして焼いた生地に具を挟んだもので、私たちの食事に比べ、質素な感じを受けました。

 私の家は三軒続きの木造平屋建てで、左隣の家は刀剣類を販売する店で、右隣りの家は自転車屋でした。家の間取りは、写真の現像をするための暗室を備えた店舗と、その奥に一部屋と台所があるだけでした。

 店には時計やカメラが並んでいました。それらを販売するだけでなく、修理も行っていました。訪れる客は日本人や日本の兵隊が多くいたように記憶しています。

 台所には土作りの竃〈かまど〉があり、鍋や釜を乗せるところには大きさに合わせて対応できるように大中小の鉄のリングが付いていました。燃料は薪でした。水は手押しポンプ付の井戸で台所にありました。

 家の裏庭に鶏小屋を作り、鶏を飼っていました。毎朝、卵を取りに鳥小屋を覗くのが楽しみでしたが、ある晩、鶏がイタチに襲われてから飼うのを止めてしまいました。風呂はなく、銭湯に通っていました。冬は大変寒く、銭湯から家に帰るまでの十数分のわずかな時間で、濡れたタオルがコチコチに凍りました。家の暖房には石炭ストーブを使っていました。

 道路もカチカチに凍り、年上の子供たちが木で作った手製のソリで遊び、小学校では上級生たちが校庭の片隅にあった手押しポンプで長時間水を汲み上げ、広い校庭中に撒いてスケートリンクを作り、スケートやアイスホッケーなどを楽しみました。一方、夏は、突然雷が鳴り、雨が降ることがよくありました。

 店の向かいには映画館がありました。映写機の具合が悪いと、父親が修理のためによく呼び出されました。私も父親の後ろについていき、「鞍馬天狗」とか「牛若丸」などの映画を見ることがしばしばありました。映画が始まる前には必ず天皇陛下が映し出され、観客は全員が起立して頭を下げたものです。

 刀剣店の道を一本隔てたところにはお寺があり、幼稚園が併設されていました。園児が帰った後は大人たちが木製の銃剣や長刀(なぎなた)の練習をしていました。

 家の前を馬車がよく通っていましたが、自動車が走っているのを見たことはありません。お寺からそんなに遠くないところに小川があり、近所の子供たちと一緒にナマズなどを取って遊びました。普段の服装は洋服でしたが、夏場は下駄をはいていました。

(*1)19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。租界には共同租界と各国専管租界があった)

・・・・・<父の入隊とそのころの日本>へつづく

2021/03/22


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