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「八事に落とされた原子爆弾 」<国民党の兵隊さんに守られて大連へ>山本裕道著

  • 国民党の兵隊さんに守られて大連へ

 満足な食事はなく、十分な睡眠もなく、ひたすらに歩き続けました。線路伝いを歩いていた時、ある母親が、子どもを鉄橋の上から投げ落としたということを聞きました。何かの間違いだろうとは思いますが、みんな疲れていました。

 やっと列車に乗ることができましたが、客車ではなく、木材や石炭などを運ぶ無蓋車でした。

 列車に乗って大連に到着するまで、各車両に一人ずつ銃を構えた兵隊さんが乗っていました。ただ、これまで見慣れてきた日本の兵隊さんとは違い、平ぺったい鉄兜(ヘルメット)に中国の国民党の軍服を着ていました。

 栄養も不十分な状態で母は母乳が出なくなり赤児に乳を与えられなくなりました。母は、蒸気機関車の蒸気の排出口から出る熱湯を機関士に頼んで分けてもらい、それを冷まして飲ませることしかできませんでした。それでは生まれて間もない赤児が生き延びられるわけがありません。当然、栄養不足となった弟は、私の背中の上で息を引き取りました。しかし、私は弟が死んだことも知らず、そのままおんぶし続けていました。

 母は弟が亡くなったことは分かったていたはずですが、私に背中から降ろせとは言いませんでした。周囲の人も弟が死んでいることは分かっていたと思います。団長さんが見かねて、どこかに埋葬するように説得し、線路わきに弟は埋葬されました。私たちの集団の中にお坊さんがいたので、簡単なお経をあげてもらい、それが弟の葬儀のすべてでした。

 後年、母から聞いた話によると、母は団長に私たち家族全員をこの場で殺してほしいと泣きながら懇願しましたが、団長からは「みんな内地へ帰るためにここまで頑張ってきたのだ。みんなで日本に帰ろう」と繰り返し説得されて大連まで何とかたどり着けたということです。

 母は死んだわが子を、何とかして日本に連れて行きたかったのでしょう。私は死の概念が分からず、弟の死に対し悲しいといった感情はほとんどありませんでした。むしろ、なぜただひたすら歩いたり列車に乗って移動し続けなければならないのか、早くどこかでゆっくりしたいという気持ちの方が強かったと思います。

・・・・・<大連へ到着>へつづく

2021/04/12


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