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「八事に落とされた原子爆弾 」<新天地を求め、チャムスへ>山本裕道著

●新天地を求め、チャムスへ

満州国というのは昭和六年(一九三一)九月十八日の満州事変により占領した中国東北部(現在の黒竜江省、吉林省、遼寧州〈りょうねいしょう〉、内モンゴル自治区北東部)に日本が作り上げた傀儡〈かいらい〉国家で、多くの日本人が満蒙開拓団として移住しました。

 チャムスは「満州国」の三江省〈さんこうしょう〉(現在の黒竜江省北東部)の省都で、周辺部の穀倉地帯の中心であり、ソ連軍からの防衛やソ連への侵攻の拠点としての役割も担っていました。

 昭和十二年(一九三七)七月七日夜、日中戦争の発端となったいわゆる盧溝橋事件が起きます。翌年には日中戦争を遂行するため国家が人や物を統制できる国家総動員法が制定されるという状況の中、私の父母は旧満州国へと渡ったのです。

 父の実家は豊橋駅の近くで燃料店を営んでいました。母の実家も豊橋で、祖父は軍人であったと聞いています。ただ、両親は満蒙開拓団としてではなく、チャムスでは時計、カメラの修理及び販売、写真の現像・焼き付けなどを行う店を営んでいました。満州へ移住したのは父が二五・二六歳の時で自らの意思であったのか、時計、カメラの修理技術者としてどこからか頼まれたのかわかりません。ただ、父の兄は軍属として軍関係に商品を納める仕事を営み、同じチャムスにいました。父の弟は戦闘機のパイロットで、満州で中尉として航空隊の隊長をやっていたと聞いています。

 私が生まれたのは昭和十四年(一九三九)二月。この年に第二次世界大戦が始まり、旧満州国と旧ソ連(現ロシア)の影響下にあったモンゴル人民共和国(現モンゴル)との国境で後にノモンハン事件と呼ばれるソ連軍との衝突が起きました。また、日中戦争下で戦時経済統制を実施するため、国家総動員法に基づいて国民徴用令、賃金統制令、価格統制令などが公布・施行されました。

 チャムスは漢字で「佳木斯」と書きます。北海道と同じくらいの緯度にある街で、冬はマイナス二〇℃以下になる日も珍しくありません。一方、夏は二五℃を超える日がかなりあり、寒暖の差が激しいところです。

・・・・・<チャムスでの生活>へつづく

2021/03/15


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