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「八事に落とされた原子爆弾 」<ピンポイント攻撃から無差別攻撃へ・今も残る爆弾によって傷ついた社務所の柱>山本裕道著

  • ピンポイント攻撃から無差別攻撃へ

 名古屋への空襲が本格化したのは昭和十九年十二月からです。この頃、アメリカ軍は日本の航空機産業などの軍需工場をピンポイントで攻撃する作戦でした。名古屋の冬は伊吹下ろしといわれる強い風が吹きます。そこで飛行機の速度、高度、さらに風向きや風速などを考え、攻撃目標の二・五キロメートルほど手前で投下するように設定します。それでも当日の気象条件によっては落下地点が伸びることがあったようです。

 三月の初めころまでは攻撃目標を決め、複数の機体で襲来することもありましたが、基本は一機だけでの襲来によるピンポイント攻撃でした。しかし空襲の効率はあまりよくありませんでした。

 そこで新しい作戦を立てます。日本の都市は木造家屋が多いので、爆弾ではなく、大量の焼夷弾を投下することによって、都市を壊滅状態にする作戦に切り替えたのです。この頃になると日本の防空能力はかなり低下していました。そこでさらに防空能力が落ちる夜間に高度二千~三千メートルの低空で侵入し、焼夷弾をばら撒くのです。この場合も、目標地点は決められてはいますが、目標地点だけを正確に狙うのではなく、目標地点を中心に円を描き、その中の半分を爆撃できればいい、という方法でした。

 こうした爆撃により三月十日の東京への空襲では十万人以上の死者を出し、その他の大都市でも大きな効果を上げました。三月十一日から十二日にかけ名古屋でも中央線の内側に対し、二〇〇機以上のB29による空襲が行われました。ところが他の都市ほどの被害を出すことができませんでした。広小路通り、南大津通り、堀川などが防火線となり、さらに大手デパートや保険会社などのビルが防火帯の役目を果たしたからです。

 その後も三月十九日、二十五日、五月十四日、十七日に市内に対し大規模な空襲が実施されます。特に名古屋城が焼失した五月十四日には四百四十機ものB29が襲来し、名古屋の中心部には破壊するものがほとんどなくなったといわれています。残るは東区、港区、熱田区、南区などの軍需工場だけとなりました。

 

  • 今も残る爆弾によって傷ついた社務所の柱

 この頃、日本の戦闘機はほぼ壊滅状態でした。敵機の襲来を防ぐには、残された若干の高射砲だけです。その高射砲も砲弾の最高到達高度は九千メートルとされてはいますが、実際はそこまでの高度に砲弾は届きませんでした。高射砲による戦火としては昭和十九年十二月十八日に撃墜一機、撃破五機、二十年一月十四日の撃墜六機くらいです。

 アメリカ軍は損害を少しでも減らすため、空襲は主に夜間に実施しました。ただ、日本では灯火管制が敷かれている上、日本の地形を熟知しているパイロットばかりではありません。気象条件もその日によって異なります。そのため目標域から外れた場所に落下する爆弾もありました。さらに帰還の時間までにおおよその目標地域に投下しきれなかった爆弾は海域へ出る前に投下し、機体を少しでも軽くすることで燃料を節約し、無事に帰艦できるようにしました。

 昭和区や千種区、瑞穂区などにも爆弾が落とされています。八事には目標とすべき明確な軍事施設がないにもかかわらず、いくつかの爆弾が落とされています。そんな爆弾穴の跡が、今も微かに残されている場所があります。その一つが八事興正寺の大日堂の旧休憩所の裏手です。直径約八メートル、落ち葉などでかなり埋もれていますが、今も深さ三十~四十センチの窪みが確認できます。また、中京大学のグラウンド、隣接する住宅展示場の敷地、聖霊修道院北側から滝川小学校辺りの山里町一帯にも爆弾穴があったといいます。

 三月二十四日から二十五日にかけて行われた名古屋市に対する大規模な空襲の時、昭和区五軒家町にもいくつかの爆弾が投下されています。五軒家近くの檀渓通は白林寺の住職が檀渓と称して山崎川沿いに庵を結んだ景勝地として有名です。

 この辺りは現在では住宅街となっていますが、いくつもの爆弾が投下されています。五軒家町の隣の駒方町には軍需工場で働く少年工員(軍属)のための名古屋陸軍造兵廠の寮(現駒方中学校)があり、そこの職員と五軒家町の住民合わせて数名が亡くなっています。ただ、当時の新聞報道で公表された死者は地元住民と、造兵廠の職員だけでした。五軒家町をたずねてきた南区に住む人も亡くなられていますが、その人は新聞には掲載されていません。爆弾投下の跡は確認できませんが、民家の庭に爆弾で烈しく傷つけられながら、今も元気に枝を広げているウバメガシの木が残されています。この爆弾が投下されたのは三月二十四~二十五日にかけての深夜で、爆撃目標は東区の三菱発動機でした。

 山崎川沿いの檀渓の碑のある所から坂道を少し東へ上った左手に神明社と尚文寺があります。ここにも爆弾が投下され、尚文寺の本堂が焼け落ちています。さらに修行中の七歳の女の子を含め二人の尼僧も亡くなっています。その時の爆弾穴の跡には雑草除けのシートで覆われていますが、今もかすかな窪みとなっています。隣接する神明社の社務所内の柱は、この時の爆撃によって飛んできた破片によって付いたとされる傷が今も残されています。

・・・・・<八事に落とされた原子爆弾>へつづく

2021/04/26


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