「昭和十七年生まれがいなくなったなら……」<戦争へと突き進む日本・うどん>福井 章著
戦争へと突き進む日本
私の乳幼児期は戦争と共にあった。もちろん記憶はない。だが、当時の日常から生活に必要な様々な物資が次々と姿を消していき、いかに乏しかったのかということは、父母から聞いてきた。
昭和十五年(一九四〇)には砂糖、マッチの切符制度が始まった。切符制度というのは各世帯の人数に応じて品物毎に年間に購入できる点数が決められる。砂糖やマッチを購入するときはその切符をもっていかなければ目的とする商品は売ってもらえない。点数を使い切れば、その商品を購入することはできなくなる。
昭和十六年、コメの配給制度が始まった。配給制は米などの食料品のように、
日常生活に必要不可欠のものに対して設けられた制度で、指定された配給日に配給手帳を持っていき、決められた量しか購入できない。切符制も配給制も、いずれも経済を統制するために作られた。それだけ日本経済が逼迫し、様々な物資が窮乏していた証である。この年の四月には食堂などで食券と引き替えでなければ飲食できない外食券が発給されたが、外食券の対象は大人であり、子供は対象外であったと聞いている。
昭和十六年十二月の日米開戦以来、新聞、ラジオは日本軍の連戦連勝を伝えていた。ところが開戦から半年もたたない昭和十七年四月、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などがアメリカ軍によって空襲された。この時は実質的な被害はそれほどではなかったが、空襲から本土を守ることができなかったという衝撃は大きかったようだ。
その後、空襲は徐々に激しさを増していく。昭和二十年三月十日の東京大空襲を皮切りに多くの都市が空襲に遭っている。しかも、空襲の対象は軍事施設だけではなく、一般庶民が住む住宅地なども無差別に行われた。
国民生活が窮乏し、本土が空襲に見舞われていたにもかかわらず、新聞、ラジオなどは連日のように、日本軍が各戦地で勝利しているという報道しか行われていなかった。これはマスコミが大本営(日本軍の最高統帥機関)の発表をそのまま垂れ流していた結果であり、戦後になってから大本営発表というと、自分に都合のいい嘘を発表する例えの言葉として使われるようになった。
私が現在住んでいる町内に、軍隊経験のある九十七歳の方がいらっしゃる。戦争中に目撃したこととして「あまりにも残酷で、話すのも辛いことですが」、と言いながら重い口を開いてくれた。
「新聞記者が大本営の発表とは違う本当のことを記事にしようとしたのですが、そのことがすぐに特高(特別高等警察)に知られ、逮捕され拷問にかけられました。
天井から吊るされ、中には逆さ吊りにされて棒で殴られ、失神すると、頭から水をかけ、意識を戻らせてはまた拷問をするということを何度も何度も繰り返していました」
本当のことを書こうと思ったなら、拷問にかけられるか、場合によっては死を覚悟しなければならなかったのだ。
戦争が終わってから七十数年経った平成三十一年になっても、戦争中に目撃したことを話しながら涙ぐんでおられた。
庶民の多くは大本営発表に疑問を持つものも少なくなかった。本当に戦争で勝ち進んでいたのなら、世の中から生活物資がどんどんなくなっていくことはないはずだ。
昭和十八年(一九四三)になり、我が福井家でも話し合って祖母の実家である小栗家のある静岡県掛塚(現静岡県磐田郡竜洋町掛塚)へ疎開し、そこで小栗家の家と畑を借り、祖父母が移り住むことになった。
この時、私は一歳半であった。その年から小学校へ入学する昭和二十四年(一九四九)までの間、断片的な記憶から衝撃的な今も目に焼き付いて忘れられない記憶まである。すべてを詳しく覚えているわけではないが、「あれはいったい何だったのだろう」といった記憶もある。
私が高校生になった頃、そうした記憶について母に訊ねた。子供のころから謎となって心から離れない、どうしても知りたい記憶もいくつかあった。母なら私の疑問について答えてくれるはずだと思い、記憶に残っていた光景を一つひとつ話した。
すると母は驚きの表情で、時に涙を浮かべ、悲しさと悔しさが入り混じったような顔となり「戦争は絶対にやってはならない。戦争で苦しむのはいつも国民だ」と言いつつ語ってくれた。
うどん
昭和十八年(一九四三)秋、ようやく片言を話すことができるようになってきた私を背負って、祖母が近所のうどん屋へお昼を食べに出かけた。店の外には長い行列ができていた。現在では行列のできる店といえばおいしいと評判の店だ。しかし戦時中である。食べるものにも事欠くような毎日である。町中の食堂は、飢えた人たちでいつも行列ができていた。
店に入っても、席が空くのを立ったまま待たなければならない。その間に食券(外食券)を店の人に渡す。うどんを手渡された客は空いた席に座り、黙々とうどんをすする。もちろんうどんの汁も最後の一滴まで飲み干す。食べ終えた客はすぐに席を立つ。テーブルを拭く間もなく次の客がうどんをもって座る。その繰り返しである。
やっと店に入ることのできた祖母が外食券を店の人に渡し、私の分も含めうどんを二杯注文した。すると店の人は強い口調で「子供の食券は発給されていない。これは大人の食券だから子どもには出せない」と拒否をした。子ども用の食券がないことは、もちろん祖母も承知していた。そのため、私の分として渡そうとした食券は私の母の食券であった。
「子ども用の食券がないことは知っています。だからこの子の母親の食券を持ってきたのです。お願いだから、この子にも食べさせてやってください」と、拝むように頼み込んだが、店の人は「ダメだ、ダメなものはダメだ」の一点張り。その時、私は片言で「アックンにもちょうだい、アックンにもちょうだい」と言いながら左の手の平の上に右手の甲を乗せ、祖母の背中から身を乗り出してお願いする仕草をしたという。
店の人は背中の私を一瞥しただけで、「決まりだから子供には出せない」と冷たく言い放ち、「食べるのか食べないのか早く決めてくれ」と祖母を促した。祖母は仕方なくうどんを一杯注文し、空いている席に着き、背中から私を下ろし、抱っこした。
味は二の次三の次といった代物で、うどんの腰などは全くない。汁の上に白く細長いものが浮いているといった感じで、箸でつまむと簡単に切れてしまう。もちろんかまぼこやナルト、ホウレンソウといった具などは入っていない。それでも、口にできるというだけで幸せであった。
祖母はぶつぶつに切れたうどんを何度も私の口に運んだ。私はそれをうれしそうに食べた。そんな孫の顔を見ながら、今の世の中の理不尽さ、自分ではどうにもならない悔しさ、嬉しそうにうどんを食べる孫の姿の不憫さなどが入り混じり、思わず涙ぐんだという。
「おばあちゃん、お腹一杯」という声に我に返った祖母は、孫の食べ残したうどんをさらえ、汁も全て飲み干し、再び私を背負うとそそくさと店を出た。うどん屋の対応の酷さと同時に、そんな対応をしなければならないようになった社会が悔しく、家に帰りつくや否や、ウワァ―と泣き崩れたという。
日増しに悪化していく食糧事情やアメリカ軍による空襲に備え、祖父母が静岡県掛塚(現静岡県磐田郡竜洋町掛塚)に疎開したのは、そんなことがあって半年ほど経った昭和十九年四月であった。
・・・・・<おみ君のおっぱい・台所で倒れこんでいた私>へつづく
「昭和十七年生まれがいなくなったなら……」<まえがき・祖母の再婚> 福井 章著
まえがき
昭和三十六年高校を卒業し、永谷園本舗に就職した。営業職として全国び回り、様々な経験をさせてもらった。仕事は楽しく、充実した日々であったが、昭和四十五年、独立したいと一念発起して退職し、事業を始めた。いくつかの事業を経験し、最終的に六〇席の喫茶店経営に落ち着いた。結構実入りがよく、常連客とも仲良くなるなど、楽しく毎日を過ごすことができた。ある日、年配の常連客であった名古屋大学教授から、マスターは何年生まれですかと聞かれ、昭和十七年ですと答えたところ、いずれ、あなたたちの世代もいなくなる。その時になったら、日本は再び戦争になるかもしれないと意外なことを言われた。
かつて、戦前派、戦中派、戦後派という言葉が使われていた。戦争を直接体験しているのは戦前派である。それも昭和一桁生まれまでの人である。戦争の悲惨さ、不条理を語ることができるのは直接戦争の悲惨さを体験した戦前派と呼ばれる人達である。
戦中生まれの私たちの世代の中にも、親に抱えられ防空壕へ逃げ込んだ記憶をかすかに留めている人はいるだろう。しかし、昭和十七年生まれにもなると、激しい空襲の記憶はない。まだ赤子で母の背中におんぶ
されていただけである。
そんな戦中派であっても、戦後の飢えを体験した記憶ははっきりと心に刻み込まれている。二度とあのような生活に戻ることがあってはならない。戦争体験は兵隊としてのつらい経験や空襲から逃げ回った経験だけではない。飢えの苦しみもれっきとした戦争経験である。
昭和十七年までに生まれた者であれば、そうした飢えの苦しみを身をもって経験し、記憶に留めている。それが昭和十八年生まれになると、飢えの苦しみの記憶もほとんどなくなってくる。飢えで苦しんだ経験を語ることができなくなった時、再び戦争への道を歩み始める可能性が高くなるというのである。
どう考えても戦争はいけない、いけないというよりは犯罪である。それも国家による最大の犯罪である。戦争は直接知らないが、戦後の飢えに苦しんだ子どもたちはたくさんいる。昭和十七年生まれの私もそんな体験者の一人である。
祖母の再婚
大正二年(一九一三)十一月、東京市深川区(現東京都江東区)で朝比奈新平と妻“その”との間に二人目の女の子が産声を上げた。それが私の母“千代”である。女の子は両親と姉の“しの”に可愛がられ、健やかに育ち、やがて小学校へ入学した。
九歳になった大正十二年(一九二三)九月一日、その日の明け方の天気はあまり良くなかったが徐々に回復し、昼近くには蒸し暑くなっていた。女の子の父はいつものように仕事に出かけ、“千代”と“しの”は小学校へと出かけた。楽しかった夏休みが終わった翌日の始業式の日であった。久しぶりに友達と会い、夏休みの思い出を語りあった。昼前には“千代”と“しの”は学校を出た。家では間もなく帰宅するニ人の子供のため、“その”がお昼御飯の支度をしていた。その日も平凡ではあるが、幸せな日常生活が繰り広げられていた。
突如、ドドーンという大きな地鳴りがしたかと思った瞬間、地面が大きく揺らぎだした。電柱や家々がぐらぐらと揺れる。塀も揺れる。家の中では戸棚から食器が飛び出して砕け散り、戸棚やタンスが床の上に大きな音とともに倒れてきた。家の壁(土壁)にはみるみるうちに亀裂が入り、壁の中にある竹でできた骨組みがあらわになった。屋根からは瓦が剥がれ落ち、家が倒壊していった。
地震発生時、昼食時ということもあ
って、ほとんどの家で火を使っていた。
当時、調理はもちろん、風呂やお湯を沸かすため薪や炭が使われていた。釜戸は固定されているが練炭や炭を使う七輪は手で持って簡単に移動できる。七輪の上に載せてある鍋が転げ落ち、七輪そのものも横倒しとなった。崩れる釜戸もあり、火がむき出しとなった。その火の上に倒れた家財道具、あるいは倒れた柱や屋根が覆いかぶさり火がついた。町のあちらこちらから火の手が上がった。
死者、行方不明者十万五〇〇〇人以上、全壊家屋約十万九〇〇〇棟、焼失家屋約二十一万棟もの大被害を出した関東大震災である。
人々は迫りくる火を避け逃げ惑った。“千代”は姉の“しの”を探そうとしたが見つけられない、急いで家へ帰ろうと走ったが、何か大声で叫びながら自宅のある方向から逃げてくる人波に押され進むことができない。どうしたらいいかわからずにいると、見知らぬ人が「危ないからこっちへ、早く、早く」と声をかけ、手を引いて一緒に逃げてくれた。恐怖と姉や母親とも会えず、泣きじゃくるしかない幼い“千代”に、「大丈夫だからね」「大丈夫だよ」と励ましの声をかけながら、安全な場所へ避難させてくれた。
お母さんやお姉ちゃん、お父さんはどこにいるのだろうと心配と不安で仕方なかった。しかし、倒壊した家屋やあちらこちらに見える火の手、人々の喧騒は泣くことすら忘れさせた。
夕方近くになり火災もやや下火になった頃を見計らい、家に戻ってみることにした。それまで見慣れていた風景は一変していた。自分の家はどうなっているのだろう、お姉ちゃん、お母さんたちは無事なのだろうかと思いながら家までたどり着くと、家は完全に焼失していた。周りにあった家もほとんどが焼失していた。幼い子供にとって、その光景はショックであった。だが、姉の姿を見つけたことの喜びも大きかった。焼け跡で、なすすべもなく二人で佇んでいると、母が戻ってきた。
さらにしばらく経ったところで父が戻ってきた。とにかく家族全員が無事であったことを喜びあった。
無事の再会を果たしたものの、地震の被害は甚大であった。焼失した家の再建はもちろん、仕事のことなどで、父新平は心労がたまり、次第次第に肉体が蝕まれ、震災から約一年後、ついに帰らぬ人となった。“その”は幼い二人の娘を養うため、縁故を頼って藤倉電線に就職した。そして職場の上司の紹介によって、昭和五年、福井作平と再婚をした。
それまで朝比奈の苗字を名乗っていたが“その”の再婚によって福井姓となった。しかし、朝比奈の名前は残さなければならないとして、姉“しの”の姓は変えなかった。同じ家族でありながら父母と下の娘“千代”の三人は福井姓、上の娘“しの”は朝比奈姓で暮らすことになった。
関東大震災によって、日本経済は大きな打撃を被った。そして震災手形が不良債権化し、さらに昭和二年(一九二七)、
当時の片岡蔵相の「東京渡辺銀行が破産した」との失言をきっかけに取り付け騒ぎとなり、昭和の金融恐慌へとつながっていった。昭和四年(一九二九)にはアメリカ合衆国のニューヨークでの株価暴落をきっかけとして世界恐慌となり、その波に日本も飲み込まれていった。
このころから、日本は急速に軍国主義の道へと突き進んでいく。昭和六年(一九三一)の満州事変によって、日本は満州国を建国する。
“千代”’は年頃になっていた。義父である福井作平から見合い話を勧められた。しかし、“千代”は前原進一という恋人がいた。作平は前原との結婚に猛反対をしていたが、結局は“千代”の意思を曲げることはできず、福井家に養子に入ることを条件に二人の結婚を許した。
昭和十二年(一九三七)から日中戦争が始まり、昭和十六年(一九四一)十二月六日からアメリカとの間の太平洋戦争へと突入していった。
太平洋戦争が始まる前、私の一家はまだ武蔵野の面影が色濃く残っていた板橋区(現練馬区)に居を構えていたが、父が名古屋市へ転勤となり、私は昭和十七年(一九四二)四月二日に名古屋市昭和区で呱呱の声を上げた。だが、一年も経たぬ昭和十八年春、再び家族そろって板橋区へ戻ることになった。
・・・・・<戦争へと突き進む日本・うどん>へつづく