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「八事に落とされた原子爆弾 」 山本裕道著  (全公開中)

 旧満州から八事へ 子供が体験した戦争

 戦争が終わって七十五年を経た今日でも、不発弾が見つかったというニュースに接することがあります。戦争について覚えている人は、いま、何人ほど残っているのしょうか。

 

 私は旧満州国で生まれ、戦争が終わった時は国民小学校一年生でした。当然、戦場のことは知りませんが、満州から日本への道程〈みちのり〉は、私にとって戦場そのものでした。

 

 日本へ帰国したものの、両親のそれぞれの実家はともに空襲で焼け出され、生活の基盤がなく、公の収容施設で生活し、小学校を卒業してから、八事で生活するようになりました。

 

 八事は今も緑が多く、静かな地ですが、当時はもっと緑が多く、春になると鴬、メジロ、初夏にはヒヨドリ、ヒバリのさえずりなどが楽しめました。戦争とは無関係な平和な場所だと感じてきたのですが、私が住んでいるところから近い場所に、とても「恐ろしい爆弾」が投下されていたことを知りました。

 

 調べてみると、八事を含めた東山の丘陵地帯には爆弾によってできた穴、防空壕、高射砲陣地など、戦争の傷跡がかなりありましたが、今ではそのほとんどが残されていません。
名古屋は他の都市と同様、大規模な空襲の被害を受けています。空襲から逃れるため、都心部から八事へ疎開した人たちもいました。なぜそんな八事に爆弾が投下されたのでしょうか。

 

 多くの爆弾が投下された中でも、その「恐ろしい爆弾」とは何か、なぜ八事に落とされたのか。八事のどこに落とされたのかを調べてみると、八事第二日赤病院の交差点近くでした。投下されたのは昭和二十年(一九四五)七月二十六日でした。

 

 米軍は空襲などによって日本に与えた損害を空中写真等でかなり詳細に調べています。八事に落とされた「恐ろしい爆弾」の痕跡は昭和二十二年(一九四七)十一月七日の米軍の航空写真で確認できます。

 

 アメリカは日本に原子爆弾を投下する訓練用として、全く同じ形状、同じ重量の模擬原子爆弾を百六十六発製作し、そのうちの四十九発を、日本の各地に投下しました。七月二十六日、模擬原子爆弾を搭載した爆撃機が富山市東岩瀬町に向かいましたが、天候悪化による視界不良のため、富山市への投下を中止し、引き返すことになりまた。しかし、無事に帰還するには機体を軽くし燃料を節約する必要があります。また、原爆を正確に投下するためには、飛行速度、高度、気象条件など少しでも多くの資料を収集しなければなりません。そうしたこともあって日本本土を離脱する直前にその爆弾を投下したのです。それが第二日赤の交差点近くに着弾しました。この時、数名の方が亡くなっています。

 

 この爆撃機は、約半月後に広島に原爆を投下したエラノゲイでした。模擬爆弾は全体を黄色に塗装していたため〝イエローパンプキン〟と呼ばれていました。

 

 この当時、私は日本から遠く離れた旧満州国のチャムスという街にいて、国民小学校へ入学したばかりでした。当然、イエローパンプキンどころか、広島、長崎に原爆が投下されたことなど知る由もありません。日本の敗戦によって、私たち家族は急いで「内地」へ向かうことになりました。いわゆる逃避行です。

 

 私の一番下の生まれたばかりの弟は、私の背中で息を引き取りました。短い旅でしたが、子どもたちにとっては、長くつらい旅でもあったのです。


 

 

 

 

 

 

 


八事周辺の戦跡をたずねる 

 大人になって知った戦争の傷跡

 

 八事に移り住んで半世紀以上の時を経ました。満州での逃避行の記憶も遠くに置き忘れてしまっていました。名古屋や豊橋など日本の多くの都市は空襲によって焼け野原になったのですが、戦争の傷跡の大半が失われ、あるいは忘れ去られようとしています。

 戦争の傷跡などすでにないと思っていた八事に、実は爆弾穴や防空壕、高射砲陣地などなどがあったことを知りました。さらに模擬ではありますが原子爆弾が投下されていたことも知りました。これらの爆弾によって、何人もの人が亡くなったことも知りました。


 

 

 

 

 

2021/03/10


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