「八事に落とされた原子爆弾 」<昭和区にあった高射砲陣地・山中に作られた海軍施設の防空壕>山本裕道著

  • 昭和区にあった高射砲陣地

 アメリカの爆撃機が襲来したときに備え、日本にも防空態勢はありました。その一つが高射砲です。南区の見晴台にある高射砲の台座の跡は戦争遺跡としてよく知られていますが、八事・杁中及びその近辺にも高射砲陣地とされるものがあったことは意外と知られていません。また、高射砲隊には爆撃機が襲来する前に探知するための聴音機や、爆撃機を照らし出す照明灯なども高射砲とは少し離れた場所に設置されていました。

 千種区、昭和区、天白区、瑞穂区内の小高い山の上などに、高射砲陣地があったという話を聞くことがありますが、その多くは、模擬の高射砲であったようです。つまり、丸太などを組み合わせ、上空から見ると高射砲のように見せかけたのです。それで果たしてアメリカ軍の目を誤魔化すことができたかどうかはわかりません。ただし、偽の高射砲ではなく、照明灯や聴音機のあった場所を、高射砲陣地として伝えられている場合もあるようです。天白区にあった権現山(現在は削られて天白高校になっている)にも高射砲陣地があったとされますが、ここにあったのは高射砲ではなく照明灯であったようです。

 現在の南山大学のキャンパスの近くには実際の高射砲がありました。ただし、どのような性能の高射砲であったのかは判然としていません。さらに、この高射砲によって、実際に爆撃機を撃墜したのかどうかもよく分かりません。

 かつて、関東の高射砲隊にいたという人によると、本土へ向かってくる爆撃機に対しての射撃は行わず、空爆を済ませ、引き返していく爆撃機に対して撃っていたといいます。向かってくる飛行機に討つと、逆に攻撃されてしまうからです。引き返す飛行機に撃つのであれば本土防衛になるはずがありません。

 

  • 山中に作られた海軍施設の防空壕

 五軒家にある神明社には鳥居がなく、ライオンの像が狛犬の代わりに置かれています。正面の道路に面したところは現在、石垣になっていますが、ここに防空壕がありました。また名古屋大学構内にある鏡池の東側の山や見附小学校(千種区)が造られる前の「稲船山」などにも、いくつかの防空壕がありました。いずれも斜面や崖を利用して横穴を掘っただけのものでした。そのほか、一般の民家では庭に縦穴を掘った防空壕も作られました。

 江戸時代には名古屋を代表する行楽地であった八事音聞山(天白区)にも巨大な防空壕が作られました。旧横須賀海軍施設部名古屋支部の事務所として山の中腹をくり抜いたものです。高さ約三メートル、長さ約一〇〇メートルの二本で、中央部付近で繋がり、全体として「H」の形をしていました。作られたのは昭和十九年(一九四四)、主に海軍の飛行機に使う木材の管理を目的にしていたようで、建設作業には四百~五百人が働いていたといいます。建設作業で出た土砂はトロッコで運び出され、近くの池の埋め立てに使われたようです。作業にあたったのは主に朝鮮人労働者で、毎朝、トラックに乗って通っていたそうです。

 戦後、山の上に建物を作るため、防空壕は埋められ、付近も住宅街となってしまいましたが、いまも、民家の裏に、コンクリートで塞がれた防空壕の入り口跡を残しています。

・・・・・次週<八事、杁中に爆弾が落とされた理由。>最終回へつづく

2021/05/10

「八事に落とされた原子爆弾 」<八事に落とされた原子爆弾>山本裕道著

  • 八事に落とされた原子爆弾

 八事霊園の南端にある東連寺は本堂が直撃弾を受け、寺の関係者の方が亡くなられています。霊園入り口の花屋さんのある辺りにも投下されました。さらに山手通りから斎場へと通じる交差点の辺りにも投下され、多くの墓石が爆風で倒されました。今も、爆弾の破片で傷ついた墓石が少なからず見られます。

 立花健二氏の「名古屋帝国大学東山校地が受けた空襲について」――米軍資料と空中写真による昭和二十年三月二十五日の空襲調査――によると、名古屋大学構内には現在も若干の爆弾穴が残されています。昭和三十年代頃までは名古屋大学構内や現在は南山大学の敷地となっている丘陵地にもいくつかの爆弾穴があり、子供たちの格好の遊び場となっていました。

 アメリカ軍が撮影した航空写真から、これらの穴は昭和二十年三月二十五日の空襲によってできたようです。八事に投下された爆弾も、おそらくこの時のものだと思われます。

 ところが、アメリカ軍による爆弾投下はこれだけではありませんでした。日本がポツダム宣言を受け入れ、玉音放送によって国民に終戦を知らせた八月十五日を間近に控えた七月二十六日、巨大な爆弾が八事日赤の交差点付近に投下されました。重量四千五〇〇㎏、長崎に投下された原子爆弾と重さも形も同じです。ただし、通常爆薬でした。黄色く塗られていたため、通称イエローパンプキンと呼ばれる模擬原子爆弾です。

 原爆投下のB29を操縦するため、パイロットは特別の訓練を受けていました。高度一万メートルの上空から正確に目標地点へ投下するため日本の地理、気象などを頭に叩き込み、目標地点への侵入経路、高度、飛行速度、投下のタイミング、投下後、素早く退避する行動などを繰り返し訓練していたのです。原爆投下を実行するためのチームは一つだけではありませんでした。そして訓練の仕上げに日本での投下練習を行ったのです。その中には広島に原爆を投下したエラノゲイや長崎に投下したボックスカーもいました。

 模擬原子爆弾の最初の投下は七月二十日、茨城、東京、福島、富山、新潟に対し合計九発が投下されました。そして七月二十六日、名古屋にも模擬原爆が投下されたのです。その日、エラノゲイは富山市東岩瀬の軍需工場に向かっていました。ところが富山の上空は雲に覆われていたため、投下はできても、直後の被害状況を調べることが難しくなるため、目標を急遽変更し名古屋へ投下したとされています。

 当事、八事近辺は人家が少なかったとはいえ、この爆弾によって民間人二名と兵士三名が亡くなっています。この訓練に参加していたエラノゲイが八月六日に広島へ、ボックスカーは八月九日に長崎に原爆を投下しました。

 ところが、さらに終戦の前日となる八月十四日に春日井市へ四発、豊田市(旧

挙母町)へ三発の模擬原爆が投下されました。こうして日本に投下された模擬原爆は四十九発にものぼりました。模擬原爆の投下には訓練以外にもう一つの目的がありました。四千五〇〇㎏の大型爆弾一発と、同じ重量分の小型爆弾多数を投下した場合、どちらの方が高い威力を発揮するのかを調べるためです。結果は同じ重量であれば多数の小型爆弾の方がより大きな被害を出せることが分かり、パンプキンは使われることがなくなりました。

・・・・・次週<昭和区にあった高射砲陣地・山中に作られた海軍施設の防空壕>へつづく

2021/05/03

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