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「八事に落とされた原子爆弾 」<父の入隊とそのころの日本>山本裕道著

●父の入隊とそのころの日本

 昭和十九年(一九四四)、私はお寺の幼稚園に入園しました。現在のように年少、年中、年長といった区分けはなかったように思います。幼稚園は一年間だけでした。  

 この年の六月、それまでのB25よりもさらに高性能のB29爆撃機による日本本土への初めての空襲がありました。この爆撃機は中国四川省の成都から飛び立ち、八幡、若松(現北九州市)の製鉄工場を目標にしたものでした。アメリカの空襲は必ずしも当初の目標通りではなかったようですが、日本側の防空体制の脆弱さが明らかになり、その後の大規模な本土空襲の発端となりました。さらに七月にはサイパン島が奪還されました。

 この頃、父は召集されソ連との国境警備の部隊に入隊しました。主な任務は機関銃等の修理であったと聞いています。この時、父の店の従業員も一緒に召集されました。ある時、幼稚園から父がいる部隊へ慰問に出かけたことがあります。母親から父に渡すようにとお菓子を持たされました。部隊のある場所は小さな子どもたちが行くことができる程度の距離なので、それほど遠い場所ではなかったのでしょう。

 記憶に残っているのは背丈の高い草が生い茂る広い草原の中に、ぽつりぽつりと兵舎があったことです。恐らく、それが面会所ではなかったかと思います。そこへ行くまでの途中、お腹がすいてしまい、つまみ食いをしながら歩き、お菓子を父親に渡すことはできませんでした。この年(昭和十九年)八月には名古屋市内の小学生の集団疎開が始まっています。

 父と毎日顔を合わすことはできなくなったとはいえ、母と私たち三人の兄弟は平穏な生活をしていました。日々の暮らしで辛い思いをした経験はありません。食事の質は変わっていたかもしれませんが、ひもじいと感じた記憶はありません。

 この年の十二月には 名古屋市東区にある三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)が空爆に遭い、さらに旭村にあった同社工場も空爆されています。

 年が明けた昭和二十年にアメリカ軍は硫黄島を陥落させ、本土空襲が一段と激しさを増していきます。三月十日には十万人以上が亡くなった東京大空襲があり、名古屋でも一月、二月、三月と市内や三菱重工業大幸工場などに空襲が行われました。なかでも三月十二日の名古屋大空襲で、名古屋市内の中心地は焼け野原となりました。五月十四日の空襲で名古屋城が炎上し、六月十九日には父の実家のある豊橋が空襲によって多くの死者を出しています。この十九日から二十日未明にかけての豊橋空襲では市街地の九〇%が焼け野原となり、被災家屋一万五千九百九十戸、死者六二四名、重軽傷者三四六名という被害を受けています。

 名古屋への空襲は六十回以上、襲来したB29は合わせて約二六〇〇機、投下された爆弾の総量は一万四千トン、こうした空襲によって、約十三万五千戸の家屋が被災し、死者は七千八百名以上に達したといわれています。

 なお、こうした無差別爆撃は戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)だとの指摘もあります。

・・・・・<小学校への入学・敗戦を知った八月二十日>へつづく

2021/03/29


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